MONTHLY FEATURES 今月の特集
久留米城跡を攻略せよ。
緑生い茂り、篠山神社がひっそりと建つ久留米城跡。
そこは昔、ぐにゃりと蛇行する筑後川を天然の堀に持つ筑後領主の居城だった。
2021年に久留米藩主・有馬氏の入城から400年を迎えるこの地の謎を探るべく、いざ攻めのぼらん。
- File/1 「久留米城」か、「篠山城」か
- 読者の中には「久留米城ではなく、篠山城!」と主張したくなる人もいるだろう。実際、市内にある標識や案内板も表記が揺れている。城跡を研究する案内人の小澤さんによると、戦国時代から江戸時代を通して古い文献には「久留米城」と記載されているそう。「篠山城」と呼ばれるようになったのは、廃藩置県後、城内が篠山町となって、篠山神社が鎮座してから。廃城後の俗称なのだ。福岡県指定史跡としての名称は「久留米城跡」であり、正しくは「久留米城」と言える。
- File/2 日本城郭の石垣の変遷がここに
- 東面の石垣は石材のサイズがばらばら。これは織豊時代に活躍した石垣施工の技術者集団「穴太衆」によるもの。運ばれてきた石材のバランスを頭領が一目で見極め、その配置を決めたとか。積み上げた石の隙間には「間詰石」と呼ばれる小石片を詰めている。見栄えのためなので、外れても石垣は崩れない。職人技が光るところ。これに対して、南面の石垣はサイズの揃った石材が整然と並ぶ「布積み」。石材の加工技術が進み、石積みが容易になったよう。
- File/3 平和な時代のビジュアル系城郭
- 「久留米城、小さっ」と思われるかもしれないが、江戸時代の久留米城は市役所近くまで広がっていて、今ある敷地はその中心となる本丸が建つ城の一角に過ぎない。ここを囲む7つの櫓「太鼓櫓」「坤櫓」「西下櫓」「乾櫓」「艮櫓」「月見櫓」「巽櫓」はすべて3階建てという他にはない豪華な造り。さらにこれを2階建ての多門櫓でぐるりと連結させていた。見た者を圧倒する立派な城だったようだが、守りは弱かったとか。ちなみに北面は石垣もなく、見えにくい部分は案外雑。
- SpotA 吐水口と貯水槽
- 全国でも珍しい遺構 城内の排水のための吐水口が石垣に設けられている。冠木御門の近くには貯水槽もあり。こうした城跡の設備が残るのは稀らしい。
- SpotB 月見櫓つきみやぐら
- 今宵の月は絶景かな 東に面した櫓。東門が併設されていた。現在は久留米大学医学部グラウンドが目の前に。ここから高良山に昇る月を眺めていたのだろう。
- SpotC 冠木御門かぶきごもん
- 立派だけどちょっと残念 本丸の正門。格式高い造りながら左曲がりになっているため、右利きの城兵は弓を構えると心臓を守れない。防御には不利。
- SpotD 巽櫓たつみやぐら
- 久留米城の顔! 7つの櫓の中で最大規模。関ヶ原の戦いの後、天守を造ることができなくなった時代にその代わりとなる重要な櫓だった。
- 算木積みさんぎづみ
- さらにわかる石垣の変遷 直方体の石材を2本ずつ長辺と短辺が交互になるように積み、石垣の角の強度を高めている。3本ずつ積んだ箇所はより新しい時代。
有馬氏だけの城にあらず
築城から廃城まで、久留米城の軌跡をたどる
誰も知らない城の夜明け
江戸時代、ヨーロッパに日本を紹介する『日本誌』を著したドイツ人医師・ケンペルは、久留米城を「大きな門と美しい構えを備え、清き池濠を巡らした城」と褒めたたえている。だが、最初からそんなに立派な城がどーんと登場したわけではない。
始まりは16世紀前半の戦国時代。九州北部では豊後の大友氏と肥前の龍造寺氏の狭間で地方の小さな勢力が領地争いに明け暮れていた頃だ。「小竹原」と呼ばれていたこの地に初めて城が建ち、「篠原城」と名付けられたという。それは程なくして滅んでしまい、次に三井郡の某というよくわからない人物がまた新たな城を構えた。この辺りの記録はとても曖昧。笹が生い茂る小高い丘に建つ小さな砦程度のものだったのだろう。
16世紀後半の戦国時代末期には高良山座主・良寛の弟、麟圭が入城している。高良山勢力の支城となっていたらしい。そこへ九州平定のためにやってきたのが、かの秀吉だ。ブルドーザーですべてをなぎ倒すかのように有象無象を押しのけ、まったいらにしてしまった筑後に新たな大名を配置した。天正15(1587)年、その一人として空き家ならぬ空き城になっていた久留米城に入ったのが小早川 秀包である。
新婚の青年城主、秀包
秀包とはいったい何者かと言えば、NHK大河ドラマの主人公にもなった毛利 元就の九男坊。実の兄である小早川 隆景の養子となって、小早川姓を名乗った。当時21歳の青年大名でイケメンだったらしい。久留米にやってきた年にキリシタン大名として有名な大友 宗麟の娘と結婚。彼女も父と同じく熱心なキリシタンで、マセンシャという洗礼名で知られる。黒田 官兵衛こと如水の勧めでやはりキリシタン大名となっていた秀包とはウマが合ったようだ。
秀包は入城すると同時に城の改修・拡張を行っている。当時、今は篠山神社の駐車場になっている蜜柑丸跡(みかんの木が植えられていた)が城の中心だったという。本丸が狭かったので、秀包は南に新しい本丸を築いたとか。本格的な城下町の建設にも取り組んだよう。魅力的な妻を迎えて、公私ともに順調な青年実業家がはりきって企業経営に取り組む姿が目に浮かぶ。
そんな秀包にとって、麟圭は目の上のたんこぶだったに違いない。兄に代わって高良山座主となった麟圭は筑後最大の宗教的権威に支えられ、領主としてまだまだ大きな勢力を持っていた。秀包は彼を城に呼び出し、討ち取っている。麟圭もまた都会からやってきた、異国の神を崇拝する若造が大きな顔して自分の領地(と思っている)に居座っているのは面白いはずがなかっただろうけれど。
久留米城に妻子を残して
秀包の転機となったのが、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いだ。秀包は実家である毛利家も加勢する西軍として出陣。留守となった久留米城にはマセンシャと子どもたちが残った。秀包は大坂に上るにあたって家臣にこう命じたそう。
「近国の敵が攻めてきたら、一戦を遂げて我が妻子を殺害せよ。如水がやって来たら、城を渡して妻子を如水に任せるべし」
留守城攻めにやってきたのは、秀包と同じくキリシタン大名の如水だった。マセンシャと子どもたちは毛利家の領地である長州に無事に引き揚げることができ、敗軍の将となった秀包もまた実家に戻った。が、その途上で病にかかり、翌年35歳で亡くなっている。家族は再会したとか、しなかったとか。こうして久留米城はまた城主を失った。
田中吉政
1601 Tanaka Yoshimasa田中氏、城を破却する
関ヶ原の戦いに勝利した徳川 家康が江戸幕府を開き、いよいよ有馬氏の登場かと思いきや、まだ早い。慶長6(1601)年、やってきたのは田中 吉政
という近江国(現在の滋賀県)生まれの武将。石田 三成を生け捕りにした功績で久留米のみならず筑後一国を拝領した人物である。だが、彼が居城としたのはやはり関ヶ原の戦いで城主を失っていた柳川城。久留米城は支城の一つとなって、吉政の次男・則政が入城している。
吉政もまた秀包と同じく、筑後に入国早々、城郭の整備・強化を始める。記録によると、久留米城は堀が狭く守りが弱いと判断されたらしく、本丸の堀を深くして櫓や門が建てられ、二の丸・三の丸の堀も深くし、土居を高くしたとある。どうやら有馬氏がのちに完成させた久留米城の原型に近いものができているようだ。
だが、大坂の陣の後、幕府が「一国一城令」を発令し、居城以外の支城を破却するように命じたため、久留米城は廃城とされたらしい。それがわかるのは、久留米藩初代藩主・有馬 豊氏
が初めてこの地にやってきたとき、寝泊まりする場所がなく、数ヶ月間、田主丸の大庄屋などの家に滞在したことが記録に残るからである。
有馬豊氏
1621 Arima Toyouji有馬氏ってこんな人
さあ、ようやく有馬氏のお目見えだ。田中家は跡継ぎに恵まれず、お家断絶となってしまった。そこで元和7(1621)年、新たに久留米に入ったのが有馬 豊氏である。
有馬氏とはそもそも何者なのだろうか。その正体は室町時代に幕府の政治に参加して権勢を振るった名門・赤松家の庶流。本家は滅亡しているので生き残った分家である。摂津国有馬郡(兵庫県の有馬温泉あたり)を本拠地としたために有馬を名乗るようになったという。
豊氏は播磨国(現在の兵庫県)でその家の次男として生まれた。秀吉に仕えていたが、その死後は父とともに家康に従い、関ヶ原の戦いで戦功を挙げたことから丹波国福知山6万石の城主に。その後も武功を立て、兄が亡くなり、父が亡くなり、あれよあれよという間に出世。筑後一国が空いたことで、今度は久留米21万石の大大名になってしまった。
そんなわけで大勢の家臣、町人まで引き連れて久留米に意気揚々とやってきたものの、城は廃墟と化していた。もちろん、すぐさま修築にとりかからざるをえない。
遠慮しいしいの豊氏の修築
入城直後には主に本丸とその周辺の堀、家臣の屋敷の建設を進めた。また、それまで東にあった入口を南に移して、南向きの城に改築している。
だが、工事はそれからなかなか進まなかった。なぜかと言えば、よそからやってきた豊氏はまず百姓、町人、そして新しく召し抱えた家臣たちを大事にしなければならなかったからである。自分の家などリフォームしている場合ではないのだ。
「百姓が困窮しないように工事を行い、耕作の妨げになるような工事は容赦すべき」
このように豊氏は書状で家老に命じていたりする。彼らにそっぽを向かれては肝心の年貢をとれず、領国経営に支障をきたすのだ。
また、幕府に対する遠慮もあったようである。諸大名を統制するための「武家諸法度」で、築城や修復は厳しく制限されていた。豊氏は家の屋根・堀の修理だけにとどめ、城の工事が大きな噂にならないようにと、これまた家老にしっかり言い付けている。
領民にも幕府にも気を遣いまくりながら修築を進めた結果、入城して10年後の寛永8(1631)年にやっとこさ久留米城の主要部分が一応完成する。四方に櫓を置き、これを2階建ての多聞櫓で結んだ本丸を中心に、現在ブリヂストンの工場が建つ辺りに二の丸・三の丸が、市役所や商工会議所の辺りまで外郭が台形状に広がる。現在の本丸の遺構はこの寛永8年の修築に基づくものと考えられている。
そして、石垣は残った
その後も外堀を浚渫したり、新たな堀を造ったり、城内の侍屋敷を移転したり、さまざまな改築が加えられた。威厳ある姿が保たれるように努力したのだろう。
久留米のシンボルとなっていた城が終焉を迎えたのは明治5(1872)年。前年に11代藩主・頼咸が幽閉されるに及んだ久留米藩難事件の後、新政府の所有となっていた城の売却が決定したのだ。明治8(1875)年までにすべての建物の解体が済むと、部材は日田の商人らに売却された。石垣まで運び出されるはずだったところ、実業家の緒方 安平(石橋 正二郎の叔父)たちが買い戻したことで、なんとか城跡の形を留めることができたとか。そして明治10(1877)年、本丸跡地に豊氏ら5人の歴代藩主を祀る神社が建つ。のちに篠山神社と名付けられている。
来たる有馬氏入城400年に向けてプロジェクト始動!
新型コロナが計画を阻む…!
久留米藩初代藩主・有馬豊氏が久留米の地へやってきたのは元和7(1621)年。つまり、来年2021年にちょうど400年の記念の年を迎えるわけで、久留米を愛する者としては見過ごすわけにはいかない。市内ではこれをおおいに盛り上げるためのプロジェクトが進行中だ。
今年3月には、おととし国の重要文化財に指定された「有馬家霊屋 五棟」のある[梅林寺]を舞台にプレイベントが開催されるはずだった。だが、新型コロナ感染拡大の影響で延期され、プロジェクトを進める久留米市市民文化部文化財保護課の丸林 禎彦さんは落胆している様子。
「今から100年前の入城300年のときには、旧藩領内の各自治体や企業が実行委員会を作って盛り上がったようです。今回もまだ諦めてはいません。入城400年を知って頂くための取り組みを進められたら」
準備はOK! 素敵な催しに期待
久留米城跡に建つ[有馬記念館]では2016年度から「大名有馬家臣団」「有馬入城前夜シリーズ」と題した久留米城にまつわる企画展示を展開。来年は有馬氏がこの地を治めた時代を包括的に紹介する展示を予定しているという。
江戸時代に始まって今に継承され、“久留米の礎”となっている文化に注目する企画も。久留米ブランド研究会が地域のさまざまな企業に声を掛けて作られている入城400年関連グッズもその一つだ。
「新型コロナの影響で経済も含めて全体的に落ち込んでいる状況。有馬氏入城400年を機に久留米の町が盛り上がればいいなと思っています」