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久留米には水天宮がある。

久留米には水天宮がある。

800年以上の悠久の時を経て筑後川のほとりに鎮座する全国総本宮 水天宮。
古式ゆかしい風情に惹かれて神頼みもいいけれど、その奥深い背景を知って参拝すればありがたみもまた一入。
新しい年を迎える前に、筑後の人々に信仰されてきたこの名社の昔と今を紐解きたい。

平家に由来する水天宮

水天宮が筑後川のほとりに初めて祀られた時期ははっきりとわからないが、建久年間(1190~1199)と言い伝わる。そう、「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」の頃だ。
源平合戦の最終決戦となった壇ノ浦の戦いで没落した平氏。幼い安徳天皇は平清盛の正室・二位の尼に抱きかかえられて入水(じゅすい)した。平氏の女性たちが逃げ惑い、自ら命を絶つ中、安徳天皇の母に仕える按察使局伊勢(あぜちのつぼねいせ)という官女が筑後川周辺の鷺野ヶ原(さぎのがはら)と呼ばれる場所に逃れてきた。二位の尼の命でそこに安徳天皇らを弔うお社を建てたのが今の水天宮とされる。だから、御祭神は天の真ん中という意味の神々しい名前を持つ「天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」をはじめ、「安徳天皇」、その母の「高倉平中宮(たかくらたいらのちゅうぐう)」、さらにその母にあたる「二位の尼」の4柱なのである。
その後、按察使局は剃髪して尼となった。神官の娘だった彼女は人々に請われて加持祈祷をしたところ霊験あらたかだったため、尼御(あまごぜ)前と呼ばれて慕われたとか。これを受けて、お社は「尼御前神社」と呼ばれるようになった。『久留米市史』第2巻(久留米市/1982年)によると、江戸時代後期の文政年間(1818~1831)頃までそう呼ばれていたらしい。「水天宮」が正式名称とされたのは、800年以上の長い歴史を思えば比較的最近のことなのかも。

昭和2年の水天宮全景。まだ遊歩道がなく、筑後川がすぐそばまで迫る

全国の水天宮のルーツ

そもそも水天宮は筑後川の水神を祀るものだ。川では漁が盛んに行われ、その豊富な水量が筑紫平野の農耕を支えてきた。命の恵みをもたらす一方で、水難事故や大雨による氾濫が起これば命を容赦なく奪う。筑後川流域の人々がこの川を中心に生活を営んできたことは間違いなく、古からそこに住まう神様を恐れ、崇め奉ってきたことはごく自然なことと言えるだろう。
そんな水天宮は川の安全を司るだけでなく、いつしか子授けや安産祈願の御利益でも広く信仰されるようになった。水天宮・権禰(ごんねぎ)宜の宮崎展弘(のぶひろ)さんは次のように話す。
「入水によってわずか8歳で亡くなった安徳天皇をお祀りしていることから、水天宮は子どもの守り神としても信仰されています。それが安産祈願などに繋がったのかもしれません」
江戸時代には久留米藩主・有馬氏にも崇拝された。9代藩主・頼徳(よりのり)は特に信仰心が厚く、文政元(1818)年、久留米藩の江戸藩邸に御分霊を祀るように。これが東京水天宮のはじまりだ。このほかにも全国各地に御分霊社が建てられた。果ては遠く海を隔てたハワイにも。
「久留米で水天宮に親しんだ人々が移住したときにお祀りしたものと考えられます。御分霊社からさらに御分霊された〝孫〟のような水天宮もあるのでは」
今やその数は確認できるだけでも60~70社にのぼるという。久留米にある全国総本宮 水天宮はそれらの頂点に立つ由緒正しく偉大な神社なのである。

昭和18年の春大祭。神様にお供する供奉船

水天宮の
正しい歩き方

午前9時の境内に砂を掃く音が静かに響く。境内を覆う木々の合間から光が差し込み、冷たく澄んだ空気が心地よい。日がのぼるに連れて参拝客が増え、園児たちの賑やかな声も聞こえてきた。
地元の人々に親しまれて長い歴史を誇る水天宮だが、ずっとこの場所にあったわけではない。源平合戦の後、按察使局(あぜちのつぼね)によって鷺野ヶ原(さぎのがはら)という所に建てられたが、度重なる戦乱を避けて筑後川の周辺を転々としたようだ。江戸時代に入って、慶安3(1650)年に2代藩主・有馬 忠頼(ただより)から現在の社地を与えられた。この地に遷ってから今年で370年。穏やかな時が流れる久留米のサンクチュアリをじっくり歩いてみよう。

其の眞木和泉守

久留米が誇る勤王の志士
眞木和泉守(まきいずみのかみ)の足跡をたどる

昭和25年創建の「眞木神社」。左手の石碑に和泉守とともに亡くなった同志の名を刻む
「眞木和泉守記念館」には和泉守が著した書物や手紙、着物などが並ぶ

鳥居をくぐり参道を進むと、静謐な境内でひと際目立つ鎧を着たいかめしい銅像。幕末の世に勤王の志士として活躍した眞木和泉守である。まず彼の出自から説明したい。
源平合戦で入水した安徳天皇らを弔うため、この地にお社を建てた按察使局。彼女の元にある日、平 知盛(とももり)の孫と名乗る人物がやってきた。
知盛は文武に優れた名将として活躍した清盛の四男坊。壇ノ浦の戦いで平氏の敗北を悟ったとき、さらし者となることを避けるため、体が浮かび上がらないように(いかり)をかついで躊躇なく海に飛び込んだとか。「碇知盛」の名で歌舞伎でも演じられる有名なエピソードだ。
そんな知盛の孫を按察使局は大事に育てて跡を継がせた。水天宮の宮司を代々務めてきた眞木家はその子孫と伝えられる。そして、第22代の宮司が眞木和泉守である。
父を早くに亡くして11歳で神職を継いだ和泉守は、口伝で伝わる神事を一度見ただけで覚えてしまうほど頭脳明晰だったという。そんな彼が多くの幕末の志士に影響を与えた水戸学を学ぶと、いても立ってもいられなかったらしい。水戸藩に遊学してさらに見識を深め、久留米藩の藩政改革に着手。ところが、却って藩を混乱させたとして水天宮の神職を解かれてしまう。さらに蟄居(ちっきょ)を命じられて暮らしたのが、銅像の脇に建つ「山梔窩(くちなしのや)」だ。ここに建つのは復元されたもの。本物は筑後市水田にある。
蟄居して約10年。雄藩の動向が激化していることを知ると、勇猛な知盛の血が騒いだのだろう。和泉守は肉親に別れを告げ、「山梔窩」を脱出。尊王倒幕を唱えて精力的に活動し、元治元(1864)年に禁門の変で敗れると天王山で同志たちとともに自刃した。享年52歳。壮絶な人生を送った和泉守を祀るのが「眞木神社」。また、「眞木和泉守記念館」には和泉守の遺品が展示される。

きりりとした表情の眞木和泉守。力士と間違われるほど体格がよかった。子孫である現在の宮司親子にもその風貌が受け継がれているとか

其の本殿

左は現在、右は明治28年の本殿。茅葺きの屋根は昭和45年に台風で損壊。翌年、銅板葺きとなった

筑後川を見晴らす
高台の本殿に祈りを

前述の通り、現在の水天宮は慶安3(1650)年に社地が与えられ、建てられたもの。その中心でどっしりと構える本殿は宝永7(1710)年、享和元(1801)年にそれぞれ改築されたことが記録に残る。
直近では明治28年に新しく建て替えられている。明治22年の大洪水をきっかけに、瀬下町付近の高水防御を目的に実施された筑後川の治水事業に合わせて行われた。古くから筑紫次郎の恐ろしさを知る水天宮でも本殿の床を底上げしたそうだ。

其の椿

冬の水天宮を彩る約40種
恋する安徳天皇の椿

水天宮の本殿をぐるりと取り囲むように植えられた椿。久留米椿の代表品種「正義(まさよし)」、ピンク色が華やかな「王昭君(おうしょうくん)」、久留米地方の古花で純白の「白玉宝珠(しらたまほうしゅ)」など約40種が2月~4月にかけて代わる代わる花を咲かせる。これらは昭和41年に久留米鑑賞植物育成研究会が水天宮を椿の名所にと植えたもの。その際は34品種が奉納されている。当時の久留米市長も参加し、市の観光計画の一環として行われた事業らしい。
そもそも椿は水天宮の御神紋のモチーフ。これにはちょっと素敵な伝説がある。実は、壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇は生きていたという。按察使局に守られて筑後川河畔の寺院に身を潜め、そこで地元豪族の娘・玉江姫に恋をした。境内に気高く優雅に咲いていた椿の花をきっかけに二人は結ばれたというロマンチックな恋物語である。本殿に咲く可憐な椿に縁結びも期待できるかも?

其の千代松神社

水天宮の生みの親
按察使局伊勢(あぜちのつぼねいせ)を訪ねて

創建者である按察使局は、剃髪して尼となってから千代という名に改めた。霊験あらたかな尼御(あまごぜ)前として地元の人々に慕われた彼女が亡くなると、墓に松が植えられ、「千代松明神」と呼ばれて崇められたという。それがこの「千代松神社」。明治43年に水天宮の境内に遷され、本殿の東側に建つ。小さな龍のあしらわれた手水舎(ちょうずや)が目印。
元々祀られていた場所は、今は[アサヒシューズ株式会社]の所有する敷地となっている。正門前に「水天宮創建者 按察使局千代女之墓」と記される碑があり、井戸のようにも見える墓は緑に囲まれ、きれいに整備される。昭和5年に建てられたそうだ。なお、ここでは毎年春、按察使局を弔う「奥都城祭(おくつきさい)」(奥都城とは神道の墓のこと)が営まれている。水天宮の参拝後にひと足伸ばして、在りし日の按察使局に思いを馳せるのもオツだろう。

按察使局の墓は[アサヒシューズ株式会社]の敷地内にあり、水天宮から北へ徒歩15分ほど

其の水神社

境内の奥にひっそりと佇む
安産祈願必須の神様

本殿の裏に建つのは「水神社」。水徳の神様・彌都波能売神(みつはのめのかみ)と安産の神様・鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の2柱を祀る。
後者は浦島太郎の物語にもなぞらえる海神の娘・豊玉姫(とよたまひめ)山幸彦(やまさちひこ)の子。姫が出産する際、その姿をのぞかないように夫に約束させたものの、山幸彦は禁を破ってのぞき見てしまう。産室の中にいたのは巨大な鰐鮫(わにざめ)だった。こうして〝産屋の屋根が葺き終わらない〟内に生まれたのが鵜葺草葺不合命。その名の通り、ただならぬ事態にあってするりと産まれた神様である。ちなみに初代天皇である神武天皇の父親。安産祈願の際はぜひ立ち寄りたい。
木造のお社の前に置かれた「肥前狛犬」も忘れてはいけない水天宮の名物。有馬氏以前に久留米城主だった田中 吉政の治水工事に携わった肥前の石工(いしく)が奉納したもの。自分の痛い部分をなでればあら不思議、痛みが和らぐそう。おかげで頭と腰はつるつるになっている。

「撫で狛犬」の愛称で知られる。キュートな顔が特徴

災いの一年を乗り越えて、新たな年を迎える水天宮

参拝客の姿が消えた

取材時も参拝する人々の足が途絶えることなく、町中の神社らしい明るさに満ちた初冬の水天宮。しかし、新型コロナウイルス感染症によって思いがけず社会・経済の秩序が一変した今年、ここもまた大きな影響を受けることになった。
緊急事態宣言が発令された4月は境内から参拝客の姿が消えた。毎年5月に行われる春大祭も規模を縮小して開かれたため、今までにない寂しさだったとか。その後少しずつ客足が戻ったものの、本殿で執り行われる御祈願はソーシャルディスタンスを保つためにそれほど多くの人を案内できなくなっている。だが、こんな非常な年だからこそ水天宮のご加護を求める人々もいるようだ。
「今年7月の豪雨のときは、水が引いた後に地元の人がよく来てくださいました。『水天宮の神様のおかげで水が来なかった』などと御礼参りを兼ねて報告してくださるんです」
権禰宜・宮崎さんが笑みを浮かべて振り返る。

いつもと違う今度の初詣

「参拝客が戻ってきているのは嬉しいことですが、初詣はコロナ対策を考えなければと思っています。普段はあまりの人の多さに境内が飽和状態になるので」 例年、約10万人が訪れるという水天宮の初詣。本殿に人が殺到するのを避けるため、賽銭箱を建物の手前に準備し、「山梔窩」に遙拝所を設置するなどの対策を検討中だ。また、毎年常連の団体客は事前の時間調整を予定している。
「365日参拝して頂けるので、密にならないように、正月三が日にこだわらず来てもらえたら」
いつもとはちょっと違う新年がやってくる。2021年は人も社会も健やかな年となりますように。

[ 年末年始に催される行事 ]

◆ 年越大祓12月31日
6月30日の「夏越大祓」と対をなす年末の行事。本殿にて参拝者がお祓いを受ける。夏から半年間の穢れを祓い、身を浄めることで、新たな一年間を迎えるための準備を整えるもの。
◆ 歳旦祭1月1日
一年間における最初の行事。水天宮に祀られた神様に供物をそなえ、新たな年の安寧と参拝者の平安が祈願される。こちらは参拝者の参加不可。お詣りする間に本殿にて執り行われている。

御守コレクション

――按察使局のご加護をあなたにも

水天宮で授けられる御守や御札は、2月の「神水祈祷」の行事で祈願された水で墨をすって奉製される。
主要な御守はこの久留米から各地の御分霊社に届けられているという。

  • 水天宮御守
    初穂料 200円

    創建者・按察使局から歴代宮司に伝わる神秘的な御守。護符にある五つの文字を「の」の字の順に一文字ずつ指でちぎり、コップに浮かべ飲む。あらゆる願いに効果あり。

  • 瓢箪(ひょうたん)
    初穂料 400円

    水天宮御守と同じ護符が瓢箪の中に。水難から子どもを守ってくれる。

  • 安産守
    初穂料 800円

    安産祈願で知られる水天宮で一番人気の御守。ピンク色で穏やかな気持ちに。

  • 河童みくじ
    初穂料 500円

    中におみくじを詰めた素焼きの河童。手描きだから、異なる表情が可愛い。

全国総本宮 水天宮 ☎ 0942-32-3207 
[所]久留米市瀬下町265-1