MONTHLY FEATURES 今月の特集
石橋正二郎と久留米
For the welfare and happiness of all mankind
久留米の街のそこかしこに、石橋正二郎氏が遺した物がある。
毎日の風景の中にある、建物や施設、学校たち。
これらを遺せたのは事業に成功したから、というだけではない。
人を思い、育て、結びつける場として今も久留米に息づく正二郎氏の足跡をたどってみよう。
世のためになる事業を
明治22年、現在の本町にあった仕立て屋を営む家の次男として生まれた石橋正二郎氏。荘島尋常小学校(現・荘島小学校)時代は成績優秀であったものの体が弱く、思うように学校に行くことができなかったそうだ。
16歳の頃に久留米商業学校(現・久留米商業高校)で商人としての在り方を学ぶうち、商人にとって「商業道徳が重要である」という考えにたどり着いている。粗悪なものを作っても世界のものには太刀打ちできない、全国的に発展する事業で世のためにもなることをしたいとの決意をしており、時代を先取りする力には驚かされるばかりだ。
進学を希望していたものの、父の願いもあり17歳で兄の徳次郎氏とともに家業を継ぐと、事業の合理化に乗り出した。仕立て屋から事業転換をして足袋専業にし、テニスシューズのゴム底からヒントを得てゴム底を貼りつけた足袋「アサヒ地下足袋」を発売。それまでの労働者が履くわらじはすぐに傷むものしかなく、何とかしたいという思いでゴム底を貼りつけたところ、耐久性が上がり大ヒット。事業は苦労の連続だったというが、自著では「私は苦労によって練磨され、また人情の機微を知った」、「進学の希望はかなわなかったが、それは決して不運ではなかった」と書き残している。
郷里・久留米への思い
日本足袋株式会社の社長に就任直後、自動車時代の到来に先駆けて国産タイヤの生産を始めたのが41歳の頃。周知の通り[ブリヂストン]は世界企業へと成長していったが、今日まで続く「最高の品質で社会に貢献」という信念は久留米商業時代の決意から何ら揺らぎのないものだ。 欧米を視察した際には、タイヤ生産技術向上の必要性を認識しただけでなく、美術館などを積極的に見てまわって、海外の人々の豊かな暮らしぶりに感銘を受けたという。この経験が久留米を「文化的で楽しい街に」というビジョンをもつ契機となり、生涯で数々の施設を久留米に遺した。そこには郷里と人への並々ならぬ思いがあった。
人間・石橋正二郎とは
其の❶
合理主義
家業を継いだ直後“経営の近代化”を断行。後で父から叱られながらも思いは変わらなかった。また、時間を生命として働いた、と自ら振り返るほど時間を大切にしていた。
其の❷
新し物好き
当時まだ九州に1台しかなかった自動車に感動し、九州を一周しながら足袋の宣伝をしたエピソードは有名。ちなみに、福岡県の普通免許第一号は兄の徳次郎氏。
其の❸
西洋スタイル
西洋式を生活に取り入れており、健康のため酒もたばこものまず、なんと米も食べなかった。また、足袋を製造しておきながら足袋を履くこともなかったそう。
“久留米を楽しい文化都市に”その想いが形になった久留米のシンボル
石橋文化センター
正二郎氏が描く久留米の未来
昭和20年に久留米は空襲を受け、市の3分の2が焼け野原となった。天然ゴムなどの物資不足に苦労しながらも、終戦後わずか2ヶ月でタイヤの生産を再開した正二郎氏だったが、久留米市のダメージは甚大だった。久留米工場に人的被害はなかったものの、人々は日々の生活に追われ、街で繁盛しているのは不健全な娯楽ばかり。文化的な楽しみを失った社会環境にあることを憂えていた。そこで思い出されたのは欧米視察で見た風景――どんな小都市にも公園や音楽堂、美術館、体育施設があり、そこで思い思いに過ごす大人や子どもの様子だった。それにならって久留米を文化的に発展させたいとの考えで寄付したのが、[石橋文化センター]だ。
正門には「世の人々の楽しみと幸福の為に」と書いてあるが、これは正二郎氏自身が書いた、自身の考え方を表したもの。今も[石橋文化センター]の拠り所となっている。文化的な発展が豊かで明るい社会の発展につながり、さらに人々の楽しみと幸福につながるということだ。
市民への夢の贈り物
昭和31年、美術館や体育館のほか、文化会館、50mプール、テニスコート、野外音楽場、ペリカン噴水などをもつ「文化と体育の殿堂」として[石橋文化センター]は開園した。当時、入園料は1人10円。今もセンター中央に鎮座するペリカン噴水は、開園以後20年間ペリカンプールとして子供たちが泳げるように開放されていたので、幼少期にペリカンプールで泳いだ記憶がある、という人もいるだろう。 開園当日には市内パレードやブラスバンド演奏、オリンピック出場選手による模範競技などの記念行事が開催された。当時人口14万人の久留米に九州各地から客が押し寄せ、初年度の来園者数が56万人を超えたというから、その賑わいは大変なものだったに違いない。まさに市民たちに新しく健全な楽しみを与えてくれる〝夢の贈り物〟だった。
今も人が集う場として
開園から7年後に「西日本一の音楽ホール」といわれた正二郎氏念願の[石橋文化ホール]が開館。少しずつ敷地を広げながら遊園地や日本庭園も加わり広大なレクレーション施設として発展した。その時代に合わせて姿を変えながらも、久留米の文化的な中心としての役割を果たしている。正二郎氏は自著でも[石橋文化センター]について「毎年50万人余りの入場者があり、ますます発展していることは喜び」であると残している。 開園から60年余り。現在施設の中核をなすのは[久留米市美術館(旧・石橋美術館)]、[石橋文化ホール]、[石橋文化会館]。平成8年に開館した美術館別館は現在[石橋正二郎記念館]に、体育館のあった場所は[久留米市立中央図書館]になった。園内には四季の花が咲き誇り、野鳥や木々に囲まれてゆっくりと時間を過ごす家族連れの姿が見られる。正二郎氏が思い描いたあの風景のような「楽しい文化都市に」という夢が、ここで形になっているのではないだろうか。
石橋文化センター
☎ 0942-33-2271
[所]久留米市野中町1015
[開]9:00~17:00※5/1~9/30は19:00迄
[休]月曜※園内は年中開放
[P] 有
PICK UP SPOT
映像や音声も交えて正二郎氏の歩みを紹介する
石橋正二郎記念館
☎ 0942-39-1131
[所]久留米市野中町1015
[開]10:00~17:00※入館は16:30まで
[休]月曜、年末年始、展示替期間
郷里の人が心豊かに過ごせる 美しい場所
人に文化的な楽しみを
久留米市美術館
庭園には様々な生き物たちの息遣いが
久留米の洋画家・坂本繁二郎氏との交流があった正二郎氏は、夭逝した同郷の画家・青木繁の作品が散逸するのは惜しいから買い集めてほしい、という願いを聞き入れ、40歳頃から洋画の収集を始めた。好きな絵を選び買うことは趣味の1つとなり、コレクションを自分だけで愛蔵するよりも、多くの人に見てもらおうと昭和27年に美術館を創設。これが東京の[ブリヂストン美術館(現・アーティゾン美術館)]だ。その4年後、[石橋文化センター]を久留米に寄付した際、その中核をなす施設として[石橋美術館(現・久留米市美術館)]を開設した。
また、美術とともに趣味としていたのが造園。庭づくりに関しては「格別に詳しいわけではない」としながらも、美しい風景の中で過ごす心安らぐ時間を好んでいた。限られた場所の中に木を植え、水を引いて自然の姿を表すと、年数を経るうちに趣深さを増してくる。私邸や別荘の庭は自身で設計することが多く、[石橋文化センター]の庭も例外ではない。耳納連山から運ばれた石を用いた日本庭園を歩けば、都市にいながら心が洗われるような気分に。これこそ、正二郎氏が久留米に作りたかった風景なのだろう。
- 久留米市美術館
- ☎ 0942-39-1131
[所]久留米市野中町1015
[開]10:00~17:00※入館は16:30まで
[休]月曜※月曜が祝・振替休日の場合は開館、年末年始休みあり、不定休あり
[P]有料Pあり
合理的であり美しい寺院
千栄寺(千栄禅寺)
レンガ造りがモダンな雰囲気。この特徴的なガラスの色は「仏教旗」にちなんだ色だそう
寺町にある[千栄寺]も正二郎氏らしさが感じられる場所だ。代々、石橋家は[千栄寺]の檀家で、本堂が老朽化したことから昭和34年に新築して寄付した。寺といえば通例ならば和風の造りだが、ここは一風変わっている。ステンドグラス風の色彩をつけたガラスと赤レンガが印象的な洋風な外観、重厚な扉。畳に座るのは足が痛くなるからと、内部には椅子を並べた。西日が差す夕暮れ時には、ガラスが柔らかな赤い光を通し、幻想的な雰囲気になる。ちなみに、赤レンガは別の建物で使っていたものを運んできて、再利用しているものだ。
海外視察を数多く経験した正二郎氏は、洋風のスタイルが合理的だという考えに至っていて、普段の生活にも西洋式を取り入れていた。そして合理的な本堂として考えられたのがこの[千栄寺]だ。仏教の寺院としての本質はもちろん守りつつ、合理性と独創性、そして美しさ、心地よさ。通例にとらわれない考え方は他の誰にも真似のできないもの。さすがの一言だ。
- 千栄寺(千栄禅寺)
- ☎ 0942-32-9362
[所]久留米市寺町21
[P]有
人への思い が脈々と受け継がれる学び舎
心の在り方も受け継いで
久留米商業高校
正二郎氏が寄付した体育館では今日も高校生が汗を流す
[久留米商業学校(現・久留米商業高校)]には120年余りの歴史があり、正二郎氏は八回生としてここで学んだ。当時の四代目校長・浅野陽吉氏は商業教育において名のある人で、正二郎氏の考え方の形成にも関わったようだ。特に久留米市制80周年記念「久商物語」には浅野氏が商人としての在り方を説いていた様子とともに正二郎氏本人の文章がある。自由競争経済といっても信用できる商品であることが重要だということ、商人も道徳を極める必要があるということを16歳にして残しており、これは後の経営哲学や理念に通じている。
現在校内にある体育館は、同窓会からの陳情を受け、正二郎氏を中心とした有志が昭和46年に建設・寄付したものだ。現在も後輩たちはスポーツや武道に使用している。が、正二郎氏が遺したのは形ある体育館だけではない。優れた哲学、事業における功績とともに、心の在り方までが財産として、ここでは受け継がれている。
- 久留米商業高校
- ☎ 0942-33-1285
[所]久留米市南1-1-1
教育にかける思い
久留米大学 医学部
久留米大学建設時、周囲は水田ばかり
歴史を感じる重厚さ。今は最先端の研究が日々行われている
久留米に数々の寄付を行った正二郎氏だが、その始まりは[久留米大学医学部]だ。当時は[九州医学専門学校]という名称で、誘致合戦の末に久留米に創設された。昭和3年、39歳の正二郎氏は兄・徳次郎氏とともに水田に囲まれた旭町の土地を買い上げ、随所にアーチを取り入れた本館を建設。格調高い佇まいはロマネスク様式を基調としており、2020年度には登録有形文化財として登録されている。
久留米が明るく文化的な都市として発展できるかどうかは、教育にかかっているという思いがあった。[九州医学専門学校]には志のある学生が多く集まり、医師不足といわれた久留米は、今では「医師のまち」ともいわれるまでになった。
その後、久留米大学の御井学舎や附設高校の新設を支援したのみならず、荘島小学校に講堂を寄付するなど教育現場への貢献は数知れない。筑後川に風土病が発見されて泳げなくなった子どもたちのために、市内の小・中学校に21のプールを建設した際は「数千におよぶ純真な感謝文や図画などをもらい、うれしく思った」と書き残している。
- 久留米大学 医学部
- ☎ 0942-35-3311
[所]久留米市旭町67
- 主な参考文献
- 「私の歩み」石橋正二郎・著 「ブリヂストン石橋正二郎伝 久留米から世界一へ」林洋海・著
「久商物語」松尾正信・著 「見・聞・録による石橋正二郎伝~ロマンと心意気~」大坪檀・著