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祝! 水の祭典50周年

祝! 水の祭典50周年

うだるように暑い久留米の夏を彩ってきた「水の祭典久留米まつり」は、パレードや花火ができないまま、今年記念すべき50年目を迎えた。
祭りのない夏は今ひとつ物足りない!という久留米人も多いはず。
来年こそは明治通りで集まれるように、という願いを込めて「水の祭典」の名物や名シーンを今、振り返ってみよう。

久留米の元気の源は祭りだった?

初期のポスターには陽気なカッパのイラストが

「水の祭典」が始まったのは、昭和47年のこと。成り立ちを紐解くと、久留米の人々の祭り好きがよくわかる。
昭和20年に空襲を受けた久留米市では、その後の復興を願った「復興祭」が昭和22年に行われた。この時、食糧や電力が極度に不足していたにも関わらず、久々の祭りに町は沸いたという。翌年からは「久留米まつり」という名称で市民祭となり、毎年恒例の行事になった。5月の3日間、車両隊と仮装した徒歩隊による市役所前のパレードやミス久留米選彰会などが催され千人以上で賑わったものの、数年経つと熱が冷めてしまったようで、久留米まつりは昭和39年に一旦幕を閉じる。
8年後、当時の近見市長は就任するなりまず「久留米まつりをやりたい」と言った。高度成長期を迎え都市化が進む中、もう一度郷里や互いの連帯感を見直そうという市長の号令で「久留米まつり研究会」が発足。これが「水の祭典」の始まりにつながった。市民たちの連帯感を高めたいとき、市としての元気を取り戻したいとき、久留米の人にとって発火材は祭りだったのかもしれない。

千人ほどの規模から一万人総踊りへ

研究会で検討された結果、既存の祭りを統合し、「水の祭典」と総称した祭りが誕生。水、つまり豊かな筑後川の恵みを主題とし、市民がこぞって参加する市民祭だ。初日が[石橋文化センター]を開放して歌や踊りが繰り広げられる「歌と踊り市民の夕べ」、2日目が目抜き通りでの「船太鼓とカッパ祭」、締めくくりは370年の歴史をもつ「筑後川花火大会」という3日間。記録によれば、各地の婦人会や青年団、自衛隊、子ども会など地域の団体が多く参加し熱狂したようだ。
初回は成功裏に終わり、それからは少しずつ形を変えながら規模を広げてきた。特に大きな契機となったのが、第3回からスタートした明治通りの歩行者天国。普段は車であふれる大通りが、この3日間だけは巨大な祭り会場と化す。メインストリートをこれだけ広範囲に通行止めにする祭りは全国的にも珍しい。明治通りで老いも若きも体を動かし、汗や水しぶきにまみれて熱いひとときを過ごすという風景は、久留米の夏の風物詩となった。

歴史のない祭りが新たな歴史をつくる

久留米人の気質を表す「飽きヤスの好きヤス」という言葉があるが、水の祭典実行委員内では前身の久留米まつりと同じ轍を踏むまいという決意がある。「水の祭典」が長く続くために不可欠なのは、市民ぐるみの祭りであるということだけ。既成概念にとらわれずいくつものイベントを複合的に組み合わせ、楽しければ何でもアリ。まさに〝壮大な盆踊り〟なのだ。年月が経るなかで市民の生活や価値観に変化が生じるのに伴い、祭りの内容は変化しようとも、市民祭としての意義は不変。これから先も、久留米の熱い夏の歴史を刻むことだろう。

有馬火消しの演目では、馬に跨った武将が練り歩いたことも
筑後川ではヨット・カヌー教室が催されたこともあった
ミニSLが登場すると、ちびっこたちの長蛇の列ができたものだ
昭和54年(第8回)は初登場リオのカーニバルに視線集中

1万人以上が集う、灼熱の3日間

A

高良山のご神木を用いた

高牟禮祝山車

祝山車の登場を前に、祝水で六ツ門交差点を清める

昭和62年(第16回)以降のオープニングセレモニーを飾っているのは、高良山の大杉をご神木として冠した「高牟禮祝山車」だ。樹齢百年を優に超え、重さ4トンはあろうかという杉の巨木と雄々しい獅子頭をもつ山車が、明治通りをゆっくりと進み、六ツ門の交差点でぐるりと回る。見守る市民も思わず手に汗を握る瞬間だ。
この山車が作られた頃、2年後には市政100周年という記念の年を控えていた。筑後川とともに久留米を象徴する山々を「水の祭典」に取り入れたい、との思いがあったのだという。耳納山系の西に位置する高良山は、古くから親しみを込めて「高牟禮山」とも呼ばれており、山中で育った無数の年輪をもつ大杉で山車を作り、祭りのシンボル「高牟禮祝山車」として迎えた。市民祭である「水の祭典」には信仰的な意味合いはないものの、その姿を見ればどこか心が引き締まるような荘厳さを覚える。それは、久留米市民が自然の恵みとともに暮らしているからなのかもしれない。
祝山車の引き手は、陸上自衛隊員。赤や白、青、紫ののぼり旗をもつのは航空自衛隊高良台基地の隊員だ。「曳き回せ!」の号令で山車を曳く場面は、オープニングセレモニーの中でもハイライトの一つ。20名余り全員が呼吸を合わせて力を振り絞り、重量が重くバランスを崩しやすい山車を3回曳き回す。
第25回からは久留米の伝統工芸をあしらった「久留米おきあげ山車」も出場した。久留米おきあげとは羽子板飾りに見られる裂細工で、鮮やかな布で描く立体的な押し絵だ。有馬藩の参勤交代時に江戸から技術が持ち込まれ、久留米でも盛んに作られてきた。側面に久留米おきあげを施された絢爛たる山車は、まさに動く工芸品。市民の心意気を表したこれらの山車が、祭りを盛り上げている。


B

戦場さながらの

有馬押太鼓・五十騎鎗武者行列隊

昭和53年、[篠山神社]で有馬藩制時代の武芸についての古文書が発見された。ほら貝や太鼓を使った隊列の組み方、指揮をとる際の作法等が記されており、これをぜひ現代に復元させたいということに。久留米青年会議所の有志たちが太鼓の打ち手となって厳しい練習を重ね、第7回の「水の祭典」で「有馬押太鼓」を披露した。さらに昭和55年、第9回で「五十騎鎗武者行列隊」の演技が加わり、歴史ドラマのような演目がパレードに加わった。
陣笠に草鞋という足軽の身なりをして総勢100名で武者行列を組むのは、陸上自衛隊の隊員たち。ほら貝と太鼓の音を合図に一糸乱れぬ隊列から火縄銃をもつ鉄砲隊が前に出て、一斉に発射。さらに合図が鳴って隊列を変えると、今度は鎗をもつ部隊が進み出て声を上げる。パレードの一部として行われる演目ではあるが、周りの観客も息を飲むような迫力を放ちながら、終着点まで歩を進める。
踊りが主体の祭りに歴史的な演目まで加わるというのが実に「水の祭典」らしいところ。「有馬押太鼓」は振興会の活動もあり、久留米の歴史的な魅力の一つとして継承されている。


C

時代を象徴してきた

さわやかさん

PR大使を選ぶ「さわやか小町コンテスト」が「水の祭典」の一つの催し物になったのが第5回。選ばれた女性は「さわやかさん」として久留米市や祭りの〝顔〟になる。容姿端麗というより〝ハツラツとお祭り好きの女性〟という審査基準だからこそのネーミングだ。
毎年15~30人を選出し、このうちから更に選ばれた2人は「さわやか小町」と呼ばれ、ハワイ旅行などの豪華賞品が贈られたことも。平成12年で最後となったが、長きにわたり祭りに花を添えた。


D

パレードで一体感を味わう

そろばん踊り

久留米を代表する伝統工芸品・久留米絣がテーマのそろばん踊り。久留米絣は専門の機織り工場ではなく、農家で副業として織られてきたもので、絣を織る農家の女性を描いたのが「そろばん踊り唄」だ。機織り作業中に歌ったとして明治に広まるが、より知られるようになったのはお座敷唄としても歌われたから。当時、全国から久留米絣を買付けるために商人が久留米を訪問することが多く、芸者さんたちはお座敷でそろばんを鳴らしながらこの唄を聞かせた。男女のやりとりを艶めかしく描いている内容も相まって、場が大いに盛り上がったという。
福岡出身の芸者歌手・赤坂小梅が「久留米そろばん踊り唄」として歌うと、全国的なヒットに。これが今でも「水の祭典」で使われている曲だ。久留米絣創始者である井上伝女史を模した姿で、ゆっくりと歩きながらそろばんを鳴らせば、機織り機の音によく似た小気味いいリズムが刻まれる。
「水の祭典」に参加者全員が一緒に踊れるものが必要だということで、そろばん踊りが取り入れられたのは昭和51年、第5回目のとき。実際、そろばん踊りを取り入れたパレードで初めて参加者が一万人を突破したというから、どれだけの大賑わいだったかを伺い知ることができる。明治通りの歩行者天国を練り歩きながら、全員で統一して踊ることができ、しかも久留米らしさが感じられる市民の踊り。こうして、「水の祭典」パレードの核としてそろばん踊りが親しまれるようになった。
第11回以降にはロックやサンバ、レゲエにアレンジされたものまで登場。これまで常連だった地域団体に加え企業などの参加も増えると、若い世代の参加者も増えた。第15回からは「一万人のそろばん総踊り」と銘打って、パレードのクライマックスとして今も多くの人が汗を流している。


E

ワッショイワッショイ!

子ども神輿

「水の祭典」初回から、パレードに子どもは欠かせない主役だった。学年を隔てず力を合わせて校区ごとの神輿を手作りし、汗と水でずぶ濡れになりながらほぼ走りきる。担ぐことを考えずに作った神輿はとても重いが、それだけの思い入れが詰まっていた。
多い時は50近い子ども神輿が出たが、今は6基ほど。校区単位ではなくダンスチームで出場するなど、子どもたちの参加形態も変化してきた。それでも、子どもたちの目に祭りの風景はしっかりと焼き付けられるだろう。


F

伝統芸に喝采が沸く

有馬火消しの梯子乗り

7m40cmの梯子に上り、頂上で手足を広げて次々に技を繰り出す。久留米藩主第三代・有馬頼利が江戸にある増上寺の「火之御番」を拝命したことに由来する「有馬火消し」の妙技だ。火事となれば勇ましく火消しを行う屈強で勇壮な男たちの華麗な身さばきは、その昔江戸名物の一つだった。
「水の祭典」では久留米市消防団で訓練を積んだ団員が演技を行う。昭和50年(第4回)に始まって以来、多くの市民が技を見守り拍手喝采を送る、祭りのファイナルを飾る演目となっている。


G

3日間を締めくくる

筑後川花火大会

江戸時代初期の慶安3(1650)年に久留米藩主第二代・有馬忠頼が水天宮社殿を寄贈した際、その完成を祝って「水天宮奉納花火大会」として花火が上げられたのが「筑後川花火大会」の始まりだ。昭和40年に現在の名称に変わり、国内でも最も長い370年という歴史を今も刻み続けている。規模が少しずつ拡大し、「水の祭典」の最終日を飾る西日本最大級の花火大会となっている。
緩やかにカーブを描く筑後川に沿って6箇所の観覧席が設けられ、2箇所から次々に上がる艶やかな花火は今や18,000発。仕掛け花火も多く、川辺から見上げればド迫力。浴衣姿の市民や多くの出店で賑わい、地元の企業も多く協賛する。
歴史的に見れば、花火は記念やお祝いという意味合いだけでなく、平和や復興、鎮魂の願いをこめたものであった。筑後川花火大会は戦争や混乱のため中止された年もあったほど。花火ができるということは平和であるということを反映しているのかもしれない。来年には、筑後川に開く大きな花火を穏やかな気分で見上げられますように。そう願わずにはいられない。


「第50回水の祭典久留米まつり
 50周年メモリアルイベント」が行われました

「水の祭典」の50周年を祝うイベントは、その名も「燃える夏50th」。[久留米シティプラザ]のザ・グランドホールにて、半世紀の歴史をたどる貴重な写真や映像、また久留米で活躍する選抜チームによる踊りや演奏もあり、祭りへの思いを再確認することができるイベントとなった。この模様は通例ならば「水の祭典」が行われるはずだった8月2日~5日に[六角堂広場]で上映予定なので、祭り好きならばぜひ立ち寄ってみて。 ※十分な感染対策を講じた上での開催となります。状況により予定が変更になる場合があります。