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神住まう高良山に登る。

神住まう高良山に登る。

筑紫平野の東にそびえる、緑深き高良山。
その存在感たるや、古くからこの地に住む人々の心を深く捉えて離さない。
それは神様の()す霊峰であるからだ。
令和4年の新たな年を迎えて想いを込め一歩一歩踏みしめながら登れば、希望にあふれた一年を送ることができるだろう。

「高良の神」の伝説

耳納連山の西の端に位置する高良山は標高312メートルとそれほど高くはないものの、古くから「高牟礼山(たかむれやま)」「不濡山(ぬれせぬやま)」とも呼ばれ、神宿る「神体山」として崇められてきた。その中腹に、朱色の塀に囲まれた社殿の鮮やかな[筑後国一の宮 高良大社]が鎮座する。
社伝によると、元々この山には「高牟礼の神」が住んでいた。そこへやってきた「高良の神」が一夜の宿を借りたところ、結界を張ってそのままお住まいになられるようになったとか。
神様が鎮座されたのは西暦367年とも390年とも言われる。そして、400年に社殿が建てられたらしい。
なお、山上に戻ることができなくなった「高牟礼の神」は、山麓にある「高樹(たかぎ)神社」に今も鎮座されている。

山をめぐる謎の「神籠石(こうごいし)

戦前の神籠石。[高良大社]社殿の裏に今も

「高良の神」が張った結界とは何だったのか。それは今も高良山をめぐる「神籠石」という謎の列石のことだ。
「神籠石」は6世紀後半から7世紀前半に築造されたと言われる。実際のところ、こんな巨大な建造物を誰が、何のために造ったのだろうか。学会では2つの説が挙げられ、長い間論争が繰り広げられてきた。1つは「神体山」として神聖な地との境界を表した「霊域説」。もう1つは敵の侵入を防ぐための城壁だったとする「山城説」だ。さあ、あなたは高良山のあちこちで遭遇する「神籠石」を目にしてどちらだと思うだろう。
周辺には「祇園山古墳」(P37参照)をはじめとする古墳も多く散在する。当時、この地を治めた為政者、もしくはその近親者が眠っているのだろう。これらの古墳と相まって、いずれにしても高良山は筑後において、古代から政治的に重要な地であったことは間違いない。

筑後の人々に求められて

現在、[高良大社]には「高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)」を主祭神に、「八幡大神(はちまんおおかみ)」と「住吉大神(すみよしおおかみ)」の三柱が祀られている。
「高良玉垂命」は『古事記』にも『日本書紀』にも登場しないため、正体不明とされてきた。例えば、神功(じんぐう)皇后を助けて軍を率いたとの伝説が残る武内 宿禰(たけうちのすくね)であったり、初代神武天皇の祖父にあたる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)であったり、この地域を治めていた古代豪族・水沼君(みぬまのきみ)の祖神であったり、20種近くの説がある。高良山の長い歴史において、おそらく山に住まう神様をめぐり、その存在に求められた性格やご神徳が時代によって変遷した結果だろう。こうして篤い信奉を集めた神様は、「厄除け」「延命長寿」「交通安全」をはじめ、筑後の人々の生活全般を守ってきた。
そして、その名が現れる最も古い文献は、60代醍醐(だいご)天皇の命によって編纂された延長5(927)年完成の『延喜式(えんぎしき)』。神社とその祭神を記す神名帳にて、筑後国において「高良玉垂命神社」の名が筆頭で挙がっている。これが〝筑後国一の宮〟と呼ばれる所以(ゆえん)だ。


霊峰・高良山の今

日々、絶景を求めて参拝客あふれる高良大社

「三の鳥居」と「本坂」。戦前はこれが「二の鳥居」だった

その昔は神社が鎮座するとともに、「神仏習合」によって26ヶ所360坊ものお寺が立っていた高良山。明治時代に入ると新政府による「神仏分離」のために寺が廃され、現在は麓にある「石造大鳥居」を過ぎると、長い参道が[高良大社]の社殿へと続くばかりである。
社殿前の石段「本坂(ほんざか)」を上りきり、振り返ると目の前に広がる空と久留米の街並み。その美しい眺望とともに、新鮮な空気を思い切り吸い込み、すっかり吐き切れば、頭をもたげる小さな悩みなんてどうでもよくなるはず。そして、社殿に坐す神様に日頃の感謝と祈りを捧げよう。山を下りるときには晴れ晴れとした心持ちになっていること請け合いだ。
実際、祭典や神事が執り行われる日はもちろん、平日・休日に関わらず毎日、境内は多くの参拝客で賑わっている。街の喧騒を離れ、深い緑に覆われる鎮守の杜へ、神様のご加護と癒しを求めにやってくる人はやはり多いようである。
「県内外を問わず、たくさんのお客様にご参拝頂いており、大変嬉しく思っております。ただ、最近は夜景を目当てにやってくる方も増え、ゴミを落としてお帰りになることもあるようで、とても残念ですね。ご参拝は清々しい朝がおすすめです」(権禰宜・緒方さん)
どうやら迷惑を考えない参拝客もいるようだ。ルールを守り、皆がここで心地の良い時間を過ごせますように。

[高良大社]の玄関口

石造大鳥居

山の麓にどんと構える「一の鳥居」。明暦元(1655)年に久留米二代藩主・有馬 忠頼(ただより)の寄進によって建てられ、現在は国の重要文化財に指定されている。使われた石材は、領内の15歳から60歳までの男子延べ10万人が運んだとか。実は鳥居を支えるものは何もなく、その重量とバランスだけで立っているという。当時の職人の技術の高さが窺える。

光る竹が現れそうな

孟宗金明竹(もうそうきんめいちく)

国の天然記念物に指定される竹林。石段を少し外れ、道路に面した一角に群生する。各地にある「孟宗竹」の変種で、黄金色に輝く節間(せっかん)は、交互に緑の縦じまが現れ、珍しくもまばゆく美しい。さやさやと揺れる葉の音と相まって荘厳な光景だ。祭祀で用いられる御幣(ごへい)ならぬ竹林の風情に、日常の憂さも(けが)れもきっと祓い清められるはず。

〝もみじ谷〟に佇む

旧宮司邸・蓮台院御井寺跡(れんだいいんみいでらあと)

戦前における同所。観光客が多く訪れていたよう

まだ高良山で仏教が栄えていた頃、その中心となった「御井寺」の跡地。石段が連なる参道の途中にある。明治2年に「神仏分離」で山中のすべての寺が廃止された後は、藩知事となった有馬氏が館舎として居住し、ここから久留米城まで通ったという。戦前は[高良大社]の宮司が住んでいたことも。現在は立派な山門が残り、辺りは紅葉の名所となっている。

大修理で色鮮やかに

社殿

その創建以来、何度も立て替えられてきた社殿。現在の建物は久留米三代藩主・有馬 頼利(よりとし)の寄進によるもので、万治3(1660)年に本殿が、翌年に幣殿(へいでん)拝殿(はいでん)が完成した。権現造(ごんげんづくり)と呼ばれる神社建築として九州最大級の大きさを誇り、やはり国の重要文化財に指定されている。平成29年まで実施された「平成の大修理」で、より見応えのある建造物に。

絶景を眺めるならココ

展望所

社殿でお参りを済ませたら、向かうべきは高良会館6Fに設けられた展望所。雄大な筑後川の流れる筑紫平野をのんびり一望できる。遠くに夜須高原や背振山、天山などを望めるだけでなく、空気の澄み渡る春や秋の晴れた日には、有明海の向こうにそびえる雲仙岳まで目にすることもできるとか。ここのベンチに座って、持ってきたお弁当を頂くのも一興。


立ち寄りたい末社3――「高良山自動車道路」をゆく

[高良大社]には同社に付属する末社が境内外に数多くある。
以前は麓にある「石造大鳥居」から山道を歩いて向かうしかなかったが、昭和45年に「高良山自動車道路」が完成。
[高良大社]はもちろん、末社も車で時間をかけず、気軽に訪ねることができるようになった。
そこで、この自動車道路をゆくと立ち寄ることができる、とりわけ名高い3つの末社へ皆様をご案内。

霊験あらたかな防火の神

愛宕(あたご)神社

参道の入口となる「二の鳥居」を通りすぎ、「高良山自動車道路」をしばらく上っていくと、右手に見えてくる。
社殿は延宝8(1680)年に造営され、[高良大社]の社殿に次ぐ規模と風格を持つ。祀られているのは、火を司る神・火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)。国生みの神であるイザナギとイザナミの間に産まれたとき、イザナミの陰部を火傷させ、彼女の命を奪うことになったため、イザナギによって首を落とされたという哀れな神様だ。
防火の神として信仰され、その霊験談も残っている。江戸時代に朝妻町で出火があり周辺で大きな被害が出た際、同社の氏子の住む矢取の地域だけ免れたとか。さらに明治時代にも大火が起こったとき、矢取で火が止まったという。このため、今でも同地では特に崇敬が篤い。
そんな矢取のある麓まで、以前は神社の参道がまっすぐに延びていた。現在は両者の間を九州自動車道が横切っている。

高速道路の向こうに今も鳥居が残っている。実はそのすぐそばにココミ編集部あり

(かゆ)占い」に注目を

大學稲荷(だいがくいなり)神社

[愛宕神社]を過ぎ、さらに上っていくと、また右手に見えてくる立派な赤い看板が目印の神社。「筑後国稲荷十社」の筆頭とされる。当初は現在の[愛宕神社]に鎮座し、「愛宕山稲荷」と呼ばれていた。
境内には明るい空色の屋根が映える社殿が立つ。[愛宕神社]と同じ規模の敷地かと思いきや、社殿の右手に石段を発見。下りていくと、[三九郎稲荷社]が現れる。さらに石段は下社へと続いていた。3つのお社から成り立つようだ。
石段上の上社と石段下の下社のご祭神は、ともに穀物の神様である倉稲魂神(うかのみたまのかみ)。五穀豊穣、商売繁盛、開運などのご利益があり、「大學」の名にちなみ、受験合格を祈願する参拝客も多いとか。
同社では今年も1月16日に「粥炊祭」が斎行される。古からの神事で、お粥を同社の本殿に奉納。2月の初午の日にそのカビの生え方を確認し、一年の吉兆を占う。今年の「粥占い」の結果はいかに。

鳥居とともに大きな赤い看板が道路沿いに立つ。境内は意外に広くて奥深い

寅年こそお参りすべき

奥宮(おくみや)

[高良大社]の境内の先へ自動車道路をさらに進んでいくと、「奥宮」の扁額(へんがく)を掲げた鳥居の立つ一角にたどり着く。が、そう簡単にはお参りできない。よりいっそう奥へとなかなか急な坂道を下っていくことに。しばらくすると、漂ってくる優しいお香のかおり。そして、深閑とした森に響くちょろりちょろりと水の落ちる音。小さなお社の前に清水が湧いているのだ。
ここは、山中に初めて仏教を伝えた高良山初代座主・隆慶(りゅうけい)毘沙門天(びしゃもんてん)の出現を目の当たりにし、毘沙門堂を建てた場所。湧き水は同じく隆慶が天竺(てんじく)無熱池(むねつち)の清涼な水を招き寄せたものと伝えられる。明治維新後の「神仏分離」によって、毘沙門堂は「水分(みくまり)神社」と改められたが、今もどことなくお寺の雰囲気を感じさせる。
毎月、初寅の日を祭日としており、寅の日に多く参拝されているそう。寅年の今年、そのご新徳にあやかるためにも特に外せない神社である。

法力をもってここに招き寄せられたという伝説を持つ湧き水。冷たくて美味しい

高良山に伝来した文化財

「宝物館」がリニューアルオープン予定
貴重な資料が筑後の歴史を今に伝える

看板が新たに塗り直された「宝物館」。もうすぐ見学できるはず

1600年以上の長い歴史を持つ高良山には、古代以来、蓄積されてきた古文書、美術工芸品、考古資料などの多彩な歴史資料が伝わっている。中には国宝級の価値が認められるものも。
これらは平成29年から令和元年にかけて、文化庁の補助を得て、悉皆的(しっかいてき)な調査が実施された。現在も国の調査を受けており、さらなる学術的価値が認められる可能性がある。そんな高良山の文化財は今後、筑後地域の歴史を明らかにする第一級の資料として活用されるだろう。
これらを保管するのが[高良大社]の「宝物館」。長らく閉館していたが、令和4年を迎えた今年、満を持してリニューアルオープンを予定する。参拝の折には立ち寄るべき新たなスポットとなりそうだ。

国指定重要文化財

紙本墨書平家物語(しほんぼくしょへいけものがたり) 覚一本(かくいちぼん)」 12冊 室町時代成立

あの「平家物語」の貴重な写本。南北朝時代の琵琶法師・明石 覚一の奥書が残っているため、「覚一本」と呼ばれる。同書は明治時代末期、宮司によって同社で“発見”された。後からわかったことだが、大阿闍梨(だいあじゃり)を務めた寂春という僧侶が寛政9(1797)年、京都の寺院から譲り受けたものらしい。以前は国宝に指定されていたこともあり、木箱の中の写本は非公開となっている。

県指定有形文化財

斉衡・天慶文書(さいこう・てんぎょうもんじょ)平安時代前期成立

[高良大社]が所蔵する最古の古文書。斉衡3(856)年と天慶7(944)年にそれぞれ作成され、後世に接続されている。特に、「天慶文書」は筑後国の神社とその祭神を記した国内神名帳(じんみょうちょう)の副本と考えられ、その中に「正一位高良玉垂命神」という文言が確認できる。つまり、神様として最高位に位置付けられているのだ。当時の高良山の高い格式を表わす証拠となる重要な資料である。

「斉衡文書」
「天慶文書」
筑後国一の宮 高良大社
☎ 0942-43-4893 [所]久留米市御井町1