MONTHLY FEATURES 今月の特集
歩みを止めないムーンスター
久留米のゴム産業を牽引してきた[ムーンスター]は、創業から今年で150年。
1つずつ手縫いで仕立てていた足袋や地下足袋から、そして誰もが履いたことのある上履き、スニーカーへ。
知っているようであまり知らない[ムーンスター]のこれまでの歩みから、ものづくりへの情熱を探ってみた。
「精品主義」を貫いて久留米から世界へ
[ムーンスター]といえば、誰もが真っ先に思い浮かべるのが学校で履いた上履きだろう。究極にシンプルでありながら、足のサイズや形に関わらず履きやすく、滑りにくく安全に体を動かせる靴だ。
九州随一の大河・筑後川を有する地の利を生かし、古くから久留米にはいくつも産業が興ったが、中でも基幹産業として発展してきたのがゴム産業だ。[ブリヂストン]、[アサヒシューズ]とともに「久留米のゴム3社」として、久留米経済の発展を支える立役者でもある。
[ムーンスター]150年の歴史は、戦争や経済の変化、時代の流れとともにあった。が、作る履物の形や数は変わっても、創業からずっと変わらないのが「精品主義」という理念だ。「精品」とは、靴を履く人のことを思い、妥協せず真摯に作られた靴であるということ。創業者である倉田夫妻が手縫いで仕立てた一足の足袋から、現在白山町の工場で製造される数百万足の靴まで、そのクラフトマンシップは揺らぐことはない。メイド・イン・久留米のクオリティーは、時代や国境を越えながらも脈々と受け継がれ、国内外で愛され続けている。
時代の先端を突き進む
[ムーンスター]
足袋に無限の将来性を感じて
創業者である初代・倉田 雲平氏が生まれたのは、現在の中央町にあった商家。江戸時代末期の嘉永4(1851)年、ペリー来航の2年前という時代だ。倉田家は代々両替商や呉服商を営んできたが、水難や火災、父の死去などが重なり極貧状態に陥っていた。なんとか家計を支えようと、母が切り盛りする菓子屋を手伝いながら長物師(衣服裁縫師)としての修行を経て、一旦は長物裁縫の店を立ち上げた。が、長物裁縫は同業者が多くどうも商売がうまくいかない。そこで考えたのが足袋製造だった。
[つちやたび]を構えたのは明治6(1873)年のこと。店先に吊った看板には「御誂向御好次第」とあり、これは現在のオーダーメイドのこと。小さな店ながら丁寧に作られた足袋の評判は街中に広がり、暮らし向きも良くなっていった。店の始まりとともに、精品主義は始まったのだった。
成功を夢見るも一文無しに
結婚をした雲平氏が、夫婦で協力して働き幸せな日々を過ごしていた頃、大量生産の要請が舞い込んでくる。
明治10(1877)年に西南戦争がはじまり、その軍用被服として請け負ったのが20日間で足袋2万足、ズボン下1万枚など、という大型案件。夫婦2人で年間2000足程度の生産量だったため、私財をはたいて各地から職人を150人以上かき集め、この異例の大量生産をなんとか完了させた。
これで商人として大成功か、と思いきや、事態はそううまくは行かなかった。他にも軍需品を買い込み、雲平氏が足袋とともに戦地・熊本へ赴いた頃には発注者であった軍人はすでに戦死してしまっており、商品を納品することができなかった。運賃や保管にかかった経費を差し引き、結局無一文となってしまったのだ。
この失敗から得た大きな教訓は、その後[つちやたび]だけでなく[ムーンスター]となってからも大切な社訓として、受け継がれている。
転機をもたらしたミシン導入
西南戦争時の失敗から、精品主義に磨きをかけて足袋を生産する一方で、世間は文明開化に突入。レンガ造りの建物が立ち、鉄道馬車が行き交って、洋服や靴が流行し始めた。市販品として足袋を買い求める人が多くなったので[つちやたび]はいよいよ好調になり、夫婦2人で始めた店は、明治20年代には30人の従業員を抱える工場となっていた。
転機となったのは明治27(1894)年のミシンの導入。当時のドイツ製ミシンは高価で、しかも足袋のような複雑な縫製にミシンを使った例がなく、大きな試みだったようだ。が、雲平氏は機械化に確たる自信をもっていて、大量生産体制を構築するために業界初の導入に踏み切る。最初の頃は世間の冷たい目を避けて倉庫の2階でひそかに作業していたとか。
さらに[シンガーミシン]との取引が始まったことは、もう1つ新たな展開をもたらすものだった。シンガーミシンの支配人からアメリカ製キャンバスシューズの見本を見せてもらう機会があり、、足袋にゴム底を貼り付けることを思いついた。大正9(1920)年にキャンバスシューズやゴム貼り付け式の地下足袋の試作にとりかかる。
世界で親しまれる「月星靴」誕生
地下足袋にゴム底を接着する方法は縫い付けや貼り付けなどいろいろあったが、すぐゴムが剥がれたり、防水性が低かったり、ゴムが固くなりすぎたりと、課題が多かったようだ。各地から技術者を招いて試行錯誤を繰り返し、熱と圧力でゴムと硫黄に化学反応を起こし接着させる「加硫製法(ヴァルカナイズ製法)」にたどり着いた。しなやかで軽く、水場でも滑りにくくて丈夫になり、足袋や靴の品質が一気に向上した。
大正11(1922)年にゴム底地下足袋、大正14(1925)年に布靴とゴム長靴の生産を本格的に始め、特に布靴は輸出も開始。その際、外国人には「つちや」では伝わりにくいと考え、誰にでもわかる月と星で構成された「月星印」や、縁起がよいとされる「コウモリ印」を現地の文化に合わせて使用していた。精品主義の理念のもと作られた「月星靴」は世界で人気を博し、昭和12(1937)年には地下足袋と布靴など合わせておよそ1500万足という、戦前最多の販売記録が残っている。ブランド名「月星」は多くの人に親しまれ、昭和37(1962)年の社名変更では[月星ゴム株式会社]として社名にも掲げられた。
久留米とともに歩む
ムーンスターの現在地
今も生産の基本は「精品主義」
雲平氏が[つちやたび]を立ち上げ、夫婦2人で足袋を作り始めてから150年。今日も白山町の[ムーンスター]の工場では、ただひたむきに靴を作り続ける職人たちの姿がある。
雲平氏は「糸の最初から一貫して足袋を製造することが私の一世一代の念願である」とよく言っていた。そのために良い原料とともに欠かせないのが優れた従業員だ。雲平氏は創業当初から養成所を設置し、従業員の教育も熱心に取り組んだ。手作りの足袋と同様に工場で靴を大量生産する、という体制は当時大きな賭けだったようだが、それが徹底した精品主義として職人1人ひとりにしっかりと受け継がれている。150年間で積み重ねてきた伝統と技は[ムーンスター]のものづくりの中に「誇り」として息づいている。
靴の1から10までをすべて自社で
生産する靴の種類や数は大幅に増えたが、製法や流れは何ら変化がなく、靴に関する1から10までを自社内でこなすことが可能。原料となるゴムの調達や独自技術による加工、裁断、縫製、検品という生産そのものはもちろん、150年間も日本人の足を見つめてきたからこそ約1万6千種もあるラスト(足型)、靴を組み立てるための機械までもが全て自社製。
さらに、靴の加工は、熱と圧力でゴムと硫黄に化学反応を起こし接着させる、加硫製法(ヴァルカナイズ製法)を継承。職人の巧みな手作業を要し、設備も大掛かりになるため、今ではこの製法で靴づくりを行うメーカーは数社のみになっているが、ゴムのしなやかさと耐久性、キャンバス生地との強固な接着など堅牢な作りにするために、昔ながらの製法にこだわっている。すべては品質のために。揺るぎない精品主義が、こうしてまた大切に受け継がれていくことだろう。
大人を魅了する久留米産スニーカー
品質の良さから愛されてきた[ムーンスター]からは、今の暮らしに合わせた鮮度の高いシリーズが登場している。親しみがありながら洗練されたデザインの「FINE VULCANIZED(ファインヴァルカナイズ)」、ヴァルカナイズ製法の靴が窯で熱をかけられて出来上がる様子が陶器に似ていることから、職人が1つずつ手で仕上げるクラフト感を全面に出した「SHOES LIKE POTTERY(シューズライクポタリー)」など。それらは、ゴムがしなやかで丈夫なだけでなく、中敷きに「MADE IN KURUME」の文字があり、ディテールに久留米人ならそそられてしまうポイントが。次のスニーカーは、久留米産のスニーカーを選んでみてはいかがだろうか。
広告で見るムーンスターの歩み
明治の[つちやたび]の頃に行った「にかぎり升」の宣伝をご存知だろうか。販路を長崎市に拡大するにあたり、まず長崎市内の要所の電柱に、「にかぎり升」と書く。この不思議な広告で人々の興味を引いたところで、一斉に「にかぎり升」の上に「つちやたび」と書く。そこでやっと人々は広告の意味を知った、というわけだ。その後実際によく足袋が売れただけでなく、宣伝の面白さがよくわかるエピソードだ。
それ以降も、明治45(1912)年には九州では珍しかった自動車を購入し、ビラをまきながら九州一円を回ったことや、その後もパイロットを招いて九州初の飛行大会を行ったことが知られている。車や飛行機は時代の先端をいくもので、見てみたいという人たちが殺到したという。雲平氏や、その後を引き継いだ経営陣は、新しいものが人々を惹きつけるということをよく知っていたのだろう。
[ムーンスター]になってからも、人の暮らしに寄り添う広告は話題となることが多かった。時代を表すイラストや広告表現は、今見ても面白い。
[株式会社ムーンスター]
カスタマーセンター ☎ 0800-800-1792 [所]久留米市白山町60 [営]10:00~17:30 [休]土日祝日