MONTHLY FEATURES 今月の特集

久留米と鉄道

久留米と鉄道

吉井町の市街地を通る蒸気機関車。吉井歴史民俗資料館蔵、編集部にて加工(「筑後の軌道」所収)

久留米と鉄道

明治から昭和の初頭までのおよそ30年間、国道3号線や明治通りなど、主要道路に鉄道が走っていた。
今の鉄道とはちょっと違う、一回り小さな機関車が町中を駆け抜け
物資の運搬ルートとして、庶民の足として、大活躍したらしい。
今は無き鉄道の跡を辿り、当時の町並みや暮らしを思い描いてみよう。

九州鉄道久留米駅、久留米文化財収蔵館蔵
大正時代の町並み。線路が道に敷かれている(「筑後の軌道」所収)
筑後軌道吉井本社操車場。原田好一蔵、日隅公民館提供(「筑後の軌道」所収)

筑後の発展を支えた鉄道の存在

久留米-吉井間を運行した筑後馬車鉄道。浮羽郡人物名鑑(「筑後の軌道」所収)

久留米市街地を縦断する国道3号線、日田から久留米に走る国道210号線、久留米から大川方面に伸びる県道710号線…今は自動車やバスが忙しなく行き交う、筑後や周辺の都市を結ぶ幹線道路。ここに、かつて線路が敷かれていた時代があった。明治から昭和初期にわたる30年足らずの間に、存在した鉄道は実に10路線以上。縦横無尽に鉄道が走る光景は、どんなものだったのだろう。
明治時代までは、主だった交通網は筑後川での船便だった。日田や久留米といった筑後川下流域から大川に農作物や工芸品、酒や久留米絣を輸送し、大川から各地に向け商売をするためだ。
産業が発展する中、各地で鉄道開発の機運が高まり、国内初の蒸気機関車の模型を制作したのは、かの〝からくり儀右衛門〟こと田中 久重だ。明治20(1887)年に[九州鉄道(現JR九州)]が創立し、数年をかけて博多から鹿児島へと南進すると、久留米駅(現JR久留米駅)が交通網の拠点として大きな役割を果たすようになった。
そしていよいよ、鉄道が庶民の足として活躍する時代に突入する。明治36(1903)年に吉井ー田主丸間で[筑後馬車鉄道]開通。線路の上を馬が引く客車が走るわけだから鉄道といっても大して速くなく、距離も短いが、日常生活の移動にはかなり重宝した。住宅のすぐ前を通り抜ける馬車は15人乗りで、学生や労働者でたちまち満員になった(この頃から朝のラッシュがあったのかもしれない)。ほどなくして、馬車ではなく蒸気や石油を使った機関車が普及し始め、あちこちで超ローカル線が通るようになる。

久留米-吉井間を運行した筑後馬車鉄道。浮羽郡人物名鑑(「筑後の軌道」所収)

筑後の交通の要として賑わった久留米

大正に入り、久留米と周辺の大川、柳川、八女や田主丸、吉井、甘木、鳥栖といった都市同士を結ぶ軌道が次々に開通。久留米市内の主立ったところでは、日田・豆田駅から久留米市街を通る[筑後軌道]、黒木から工芸品や和紙を羽犬塚へ運搬した[南筑軌道]、上久留米駅(現縄手町)から城島を通り大川に達し、酒や瓦、木工品の輸送に使われた[大川鉄道]など。ものづくりが盛んで名産品が多い土地柄だからこそ、用途に合わせた10路線以上が稼働していた。目的に合わせて線路をどんどん延ばすそのエネルギーは、当時の景気の良さを物語っている。
この頃、筑後の交通網はかなり発達していて、大都市である長崎や博多を上回っていたともいわれる。現に、[筑後軌道]は大正12年の乗客数407万人、貨物9万トン以上という記録も。鉄道で通勤や通学するだけでなく、街へ出て買い物をしたり、旅行をしたり、そんな近代的な暮らしがあったのだろう。
庶民の暮らしを支えた鉄道は、昭和に入ってバスが主流になったことで、いずれも廃線になるか大手鉄道会社に吸収されて、今はJRと西鉄を残しほぼ姿を消した。が、現在の幹線道路はもちろん、お馴染みの生活道路にも昔は鉄道が通っていたのだ。残っている貴重な記録を紐解きながら、久留米を走った鉄道の面影を探ってみた。

久留米市街鳥瞰図(吉田初三郎画、昭和10年、久留米市蔵、「筑後の軌道」所収)

学生たちや多くの名産品を載せ
大正・昭和の新しい暮らしを支えた鉄道

市街地で活躍した鉄道を辿る

さて、主要な鉄道の1つであった[筑後軌道]はどこを通っていたのだろう。まず明治36(1903)年に開業した「本線」は順次路線を伸ばし、現JR久留米駅前を始点として荘島町、日吉町、国道3号線を横切り、千本杉、御井、旗崎と国道210号線を東へ進む。さらに田主丸、筑後吉井を通り日田の豆田駅が終着駅だ。その当時宿場町として栄えて賑わっていた久留米ー日田間の48㎞という距離を3時間25分かけて走っていたというから、最高速度が時速20㎞程だったと思われる。停留所は駅舎があったわけではなく、今のバス停のようなものだった。物資の輸送も多く、久留米からは石炭や石油といった燃料、衣類や日用雑貨を、日田からは木材や漆器、吉井で盛んに生産された木蝋などが載せられていた。
国道3号線を南下する「国分御井線」も明治42(1909)年に開業。この頃の地図を見ると、沿線には日本陸軍の施設が並んでいて、現諏訪野町辺りの停留所名が司令部前、兵器部前となっている。一丁田の交差点で県道752号線へ入り、国分、北島(現[陸上自衛隊久留米駐屯地])、矢取、御井と通る。この路線では人や貨物はもちろん、物資や武器なども運んでいたかもしれない。

久留米市街を第一銀行久留米支店(現みずほ銀行久留米支店)から東方に見た風景。市街地では複線であることがわかる。平原健二蔵、編集部にて加工(「筑後の軌道」所収)
大正14(1925)年、筑後軌道の吉井本社にて。学生や荷物を抱えた人が乗り込んでいる。吉井歴史民俗資料館蔵(「筑後の軌道」所収)
大分・豆田駅の風景。原田好一蔵、日隅公民館提供(「筑後の軌道」所収)
久留米印刷所という事務所のすぐ前を通る電車。筑後名鑑(「筑後の軌道」所収)

3路線の交差点に注目!

さらに、一丁田に注目すると、もう1つ別の路線とも接近していることがわかる。これは[三井電気軌道]という鉄道会社の路線で、八女の福島を始発点とし、上津荒木、一丁田、花畑、日吉町、櫛原、宮ノ陣と市街地を抜け、北野、甘木まで通るもの。現在通っている久大線は当時まだ開業していないものの、鉄道同士がこれほど近くを走っていて事故が起こらなかったのだろうか、といささか心配になるが、現在も一丁田交差点が複雑な構造になっているのは、ここに鉄道が密集したからともいえる。
筑後一帯に作られた鉄道は10路線以上。方々に線路を引いたり、車両を外国から輸入したりと、途方もないエネルギーを要したはずだ。その原動力は、まさに地域のパワー。なんとかして物流を変え、経済を盛り上げたいという貪欲さで、地元の銀行や代議士、商人などが垣根を超えて知恵と財力を出し合ったからこそ、壮大な交通網を築くことができた。複雑に絡む路線図や当時の暮らしの変化を想像すると、どれだけ筑後の人々が前向きにこの鉄道の時代を作ったのかを感じることができるのではないだろうか。

A現在の一丁田交差点の上空より。赤い線が筑後軌道の国分御井線、青が三井電気軌道の路線が通っていた道筋。2路線が接近する一丁田は、交通網の発達を象徴する場所の1つだ。立体交差しているのはJR九州の久大線

B西鉄天神大牟田線と立体交差する花畑駅前の道。ここは三井電気軌道の花畑駅があった辺り

C寺町から3号線に向かうこの道も、三井電気軌道が走っていた

D筑後軌道が通った跡として残る、国分公園近くの石垣。この石垣の発見により、筑後軌道の国分御井線が環状線だったことが判明

30年足らずで築かれた交通網は
時代の変化とともに終焉へ

鉄道が駆け抜けた近代化の道

明治36(1904)年に馬車機関車が走り始めてから、20年後の大正末期には鉄道の総距離は190㎞を超え、広域な鉄道網が構築された。佐賀、熊本方面にも線路を延ばし、日本全国の他の都市と比べても、かなり発展していたようだ。
路線バスが国内各地で走り始めたのが、昭和4(1929)年ごろ。数人乗りの乗用車を使ったバス事業が広まるにつれ、長距離の鉄道以外の、町中を走る短距離の鉄道は大手への吸収合併や廃線となった。蒸気機関車や石油発動機関車が住宅のすぐ前を走っていると、騒音や煙害が起きてしまっており、避けようのない転換期でもあったのかもしれない。馬車鉄道の開業から数えてもわずか26年間ほどだが、暮らしが近代化する過程の一つの時代を作ったのは、間違いなく鉄道だった。

宮ノ陣橋を通る三井電気軌道、国立国会図書館デジタルコレクション
旧宮ノ陣橋の位置を示す石碑。左の写真の宮ノ陣橋は洪水で流された

筑後軌道株式会社
(明治36年~昭和4年)

人や物の往来を安定的にすべく、久留米-日田間の鉄道が明治20年ごろから地元の名士たちが発起人となり、何度か計画倒れしつつも馬車1両のみの[筑後馬車鉄道]としてスタート。株主は銀行が多く、経済発展において大きな役割を果たした。大正11年には蒸気機関車23両、石油発動機関車2両、電車12両などを所有したが、昭和4年に国有鉄道の久大本線が開通したことを機に廃線。草野-縄手間はバスが運行した。

筑後軌道発行の筑後軌道路線案内。金子文夫資料展示館蔵(「筑後の軌道」所収)

三井電気軌道
(大正2年~昭和27年)

北野町に本社をおき、日吉町-福島間を皮切りに南北に延伸し、甘木-福島間のおよそ33㎞を運行していた。大正13年に[九州鉄道]と合併後、昭和17年には「西日本鉄道甘木線」となった。当時の他の路線は線路幅が914㎜と狭かったが、[三井電機軌道]は当初から現在の西鉄電車と同じ1435㎜であったので、昭和33年以降にバス路線となった日吉-福島(八女)間を除き、甘木線としては今も現役だ。

九州鉄道路線案内図 及び 三井電機軌道路線図。久留米市中央図書館蔵(「筑後の軌道」所収)

保存機関車・・・たち

筑後や九州で活躍した実際の機関車が記念に保存されている。活躍した時代によって車両の大きさや顔つきが違うのも面白い!

JR鳥栖駅東口268号機関車

明治38(1905)年に、イギリスで作られた車両を日本に合うように改良されたもので、民間工場が国内で最初に量産化に成功した蒸気機関車。この形の機関車は2両しか現存していない貴重なもので、もう1両は京都鉄道博物館にある。

久留米市鳥類センターD51機関車

昭和11(1936)~昭和20(1945)年に1115両製造された形で、通称「デゴイチ」。旧国鉄から昭和49年に譲渡されて以来、センター内で展示されている。旧国鉄OBによって毎年清掃と塗り直しが行われていて、キレイに保存されているのもぜひチェックを。

大牟田市延命公園(大牟田市動物園内)86機関車

大正11(1922)年に日立製作所で製造されたもので、南九州で活躍した車体。国鉄の前身である「鉄道省」が大正時代の標準形として導入し、600両以上が国内で製造されたほか、樺太や台湾でも所有された形。

三潴町コッペル型機関車

明治44(1911)年に、ドイツのアーサーコッペル社で製造された車体。[大川鉄道](のちの西鉄大川線)で榎津-上久留米間を運行していた。客車2両と貨物車2両を牽いて、最高時速20㎞だったそうだ。長めの煙突が特徴的。

<参考資料> 久留米市立草野歴史資料館「なつかしの風景 筑後の軌道」
<取材協力> 久留米市立草野歴史資料館学芸員 樋口 一成、九州芸文館総支配人 本田 雅紀、うきは市教育委員会生涯学習課